創始者(久野マサテル・通称まーくん)からのメッセージ


南の島の馬暮らし

ふがらっさあ・与那国馬- 久野 マサテル

-馬の雑誌 HORSEMATE Vol.23- より

1998.3  公益社団法人 日本馬事協会

ここは人口1,800人の小さな島。

東京から1,900キロ、沖縄の那覇から500キロ、台湾へは110キロ。

基本最西端の島、沖縄県の与那国島です。映画「老人と海」の撮影場所で、天気がいいと台湾の山並みがはっきりと望めます。

 

与那国島には何百年ものむかしから体高115センチほどの小さな馬がいます。一家に一頭という時代、ちょっと前まで続いていたいう歴史のある島です。

だけど、今では馬に乗っている人など全く見かけなくなりました。

「馬・絶滅の危機」が人生の転機に

いまから16年前、神奈川県に湘南で暮らしていた私たち夫婦は与那国馬のことなど、まるで知りませんでした。

30歳を目の前にして、私はふと自分の人生を考え始めていました。

30歳は人生の折り返し点だなあ・・・」と。

 

そんなある日、小さな新聞記事が、に止まりました。

 

「与那国馬・絶滅の危機」

 

この小さな記事が私の人生を大きく変えたのです。

 

「南の島・馬」「南の島・馬」

 

この言葉は頭の中でどんどん膨らみ、ついに決心しました。

 

「与那国へ行こう!」

 

ありがたい事に、妻は二つ返事で同意してくれましたので、勤めを辞め、そそくさと荷物をまとめて与那国島へやって来ました。

夢にまで見た馬には角があった

さぁ・・・、

いよいよ与那国暮らしが始まりました。全くゼロからのスタートです。

「土方仕事」を皮切りに「サトウキビの刈り取り」そして、「泡盛作り」。

「泡盛作り」の仕事は当然「泡盛」がいっぱい飲めました。馬を知る前に「泡盛」の味を覚えてしまいました。2526種類の泡盛を並べて、毎晩利き酒です。利き酒の相手は島の獣医さん。酒が入ると決って「明日にでも『馬』を連れてきてやる!」ってんで待ちました。

 

毎晩、同じ言葉を聞いて待ちました。とうとう三年も待ちました。

私はすっかり南の島のペースにはめられていたようです。

 

ある日、彼が囁きました。

 

「いいのがいるゾ!」

 

やっと馬だ! 胸踊らせて出かけました。だけど、案内された家の庭には角がちょっと出たばかりの水牛の仔が目をキラキラさせて私を見ています・・・。

 

一年後、水牛は700キロの巨体に育ち、私は笑いながら水牛の背で遊んでいました。

「歩鼓地(ぽこち)」

与那国馬がやってきたのは、与那国に来て33ヶ月目のことでした。

 

与那国馬は島の周囲に広がる牧場で、殆ど人手がかけられないで、極めてのんびりと1年を過ごしています。でも、それは牝馬に限ったことで、雄馬ときたら春に産まれてその冬には牧場から出されてしまうのです。そんな馬の1頭が私のところへやって来たのです。

 

サァ、いよいよ馬暮らしのはじまりです。

馬の名前は「歩鼓地(ぽこち)」。地面を威勢よく、太鼓を叩くように歩くことから名付けました。

 

それから7年間、ひたすら「歩鼓地」と毎日、毎日、向き合って暮らしました。技術が先でも、知識が先でも、経験が先でもない。試行錯誤の毎日でした。それでもどうにかなるもので、いつしか「歩鼓地」に跨がって野山を駆け、海で一緒に泳いでいました。

 

「歩鼓地」は私に与那国馬の素晴らしさを全て教えてくれました。

大地を矢のように駆け抜け、イルカのように泳ぎ、1メートルものトラックの荷台にもヒラリと飛び乗る、元気いっぱいの馬でした。

 

そんな馬遊びができるようになった頃、私は1人での馬遊びから、大勢での馬遊びを考えるようになっていたのです。

 

馬と付き合いはじめて7年目のことでした。

日本在来馬巡り

与那国馬で日本の在来馬に目覚めた私のもとには、与那国馬で知り合った多くの仲間から在来馬の情報が次々と寄せられてきます。そうなると、その馬たちを全て見たくなる。とうとう小さなバイクにテントを積んで在来馬巡りの旅に出たのです。

 

島に来て11年目の春のことでした。

 

まずは北海道の「ドサンコ」。5月だというのに与那国の真冬よりも寒いではないか・・・。

 

結局、宮古馬を除く6馬種を訪ねて与那国に帰って来たのは、約束をはるかに超え、3ヶ月が経っていました。

 

この旅で、私は多くの馬たちや馬好きの人と知り合いました。

中でも、福島県で財団法人・ハーモニィセンターが開設している「相馬ポニー牧場」は感動でした。そこには1番活きいきとした目の子供たちがいたのです。

 

この牧場を後に、バイクを走らせらながら「私もこんな牧場を作るんだ」を胸はずませていました。

馬広場づくり

帰島後、さっそく皆で遊べる馬広場作りをはじめることにしました。

「根気・呑気・元気」がモットーの私にはお金も土地もありません。あるのは「馬と夢と馬好きの若者たち」だけです。

 

幸運にも5,000㎡のススキの繁る畑跡が貸りられました。

ススキを刈り取り、馬場らしい広場に整備し、クラブハウスと自称する小屋を建て始めました。

 

7割方できあがったその夏、測候所の風速計が壊れるほどの超大型台風が島を直撃したのです。

風が去るのを待って広場に行ってみてビックリ。

馬小屋もクラブハウスも何~にもない。赤茶けた地面が広がっているだけでした。しかし当時いた6頭の馬がつぶらな瞳で待っていてくれました。

私たちはさっそく翌日から元気に広場の再建にとりかかりました。今度は小屋を極力低くおさえ、お陰で背の低い私でさえ、頭をブツけるほどです。台風の被害を知った日本中の仲間から多くのカンパが寄せられました。

とうとう、95年の春、与那国馬ふれあい広場はできました。

助っ人

南の果ての島というだけで、いつも旅人たちは後を絶ちません。

ロマンを求める旅だったり、自分探しの旅だったり。そんな彼等はきまって1度は、青い海を背景にモクモクと草を喰む、小さくて可愛らしい与那国馬の前で立ち止まります。

 

そこに私はそーっと忍び寄って囁きます。

 

「一緒に遊びませんか?」

 

ほとんどの旅人は、いつの間にか与那国馬の虜になって、気が付くと広場作りや馬の世話をしています。

そんな旅人何人、いや何十人いたでしょうか。ある人は家を借りて2年、3年と住みつき、ある人は年に何度も通いつめてきます。それぞれに与那国馬と遊び、日本の在来馬に目覚め、日本中に、時には海外にまで馬を訪ねて旅立っていきます。

 

そんな人たちを私は「助っ人」と呼んでいます。

みんなまとめて「馬遊び」

馬広場の活動は「人と馬と大自然」がテーマです。

大人も子供も、島人も旅人も、学校へ行く子も行かない子も、みんなまとめて「馬遊び」です。

 

大人は有料、子供は無料。

 

馬遊びの特別メニューは何たって「海馬遊び」です。砂浜をただ駆けるだけではありません。海の中で馬と一緒に泳いだりもするのです。

 

広場には小さな目標はが1つあります。与那国の子供たち全員に乗馬体験をさせる事です。与那国馬に乗って感じた与那国の風をわすれない大人になってほしいのです。

「ピンチ」を「チャンス」に

目標達成が間近になった矢先、大問題が生じました。借りていた広場を返さなくてはならなくなったのです。

サァ、一大事。でもピンチはチャンス。これを機に、次のステージに進もうと考えました。もっと与那国馬と遊べる広場、牧場留学ができる広場にしようという計画です。

 

「馬広場」が発行している「馬新聞・ふがらっさあ」で「町有地を貸してください」という嘆願書への署名集めを呼びかけました。(1年に4回、全国300名の夜長に馬ファンに発送。この春で20号になる)

 

署名はすぐ集まりはじめました。驚くほどの数。何という早さ。そこに寄せられた暖かいメッセージ。最果ての小さな島の小さな馬広場が、こんなにも大勢の人々に見守られ、応援されている事を実感し、新しい馬広場作りにますます熱くなるのです。

馬に育てられ

与那国馬と遊ぶことだけを夢見て始めた「南の島の馬暮らし」。いつしか16年が絶ちました。

馬は時折り、悲しそうな目をします。そんな目の奥には、この島で、何百年も働き続けてきた馬の誇りが見えてきます。

 

在来馬、それは在り来たりの馬、そんな馬たちと何の気負いもなく、在り来たりの付き合いを続けていきたい・・・。私たちの世代で与那国馬を終わらせないためにも・・・。

馬を育てたつもりが、実は馬に育てられていたようです。

 

ふがらっさあ(ありがとう)与那国馬、ふがらっさあ与那国馬を愛する人たち。

 

(与那国島在住・与那国馬大好き人間)